90年代前半、合言葉のようにマルチメディアの夢が飛び交いブームは加熱したが、実態は何も残らなかった。日本のキャプテンシステムは、北米のナプ ルプス、フランスのミニテルと同様に不発のまま、官製のメディア革命は大手通信キャリアの総括なきデモンストレーションとして終焉していた。そしてこの失われた 10年は、NTTを盟主とあおぐ日本の情報通信産業主流派(日電、富士通、日立)をほぼ死に体へ、すなわち安楽死を用意する太平の眠りへと導いたのであ る。2000年、森内閣がIT国家戦略会議」を発足させ「IT立国」の旗を振ったときの国策は、インターネットで米国に追いつき追い越せ、格下の韓国に負 けるなといった、後進国意識丸出しで明治政府以来のなじみの檄文が飛んだに過ぎなかった。
この時すでに攘夷論開国論の対決をとうに済ませて、黒船は無血上陸に成功していたのである。パソコンネットを前駆として商用インターネットは90年代後半に急成長し、国内のインターネット人口はすでに 1998年には一千万を突破していた。
だが、料金といいスピードといいその利用環境は劣悪であった。ブロードバンド化されていなかったのである。
それでもこの人口に達するまでに導いたのは、100%民間の覚醒した力であった。この覚醒した力とは、日本の財界主流でもなく、しかも通信産業の元締めである NTTや第二電電系の大手通信キャリアでもなかった。
日本の学閥からいえば非主流である情報通信系の少数の学術研究者たち、そしてすでに UNIXを情報システム構築に適用しインターネットの通信プロトコルTCP/IPに通じていた小規模のベンチャーソフトウエア会社群であった。
まさしく。当初はインターネットと騒がれたものの、ニフティサーブのインターネットゲートウェイサービスとか、かなり限定されたインターネット利用しか出来ない所から、徐々に・・・という感じでしたから。
IIJ創業者たちは、無理解と無関心の最初の壁を乗り越えねばならなかった。
その一つが、郵政省(現総務省、以下同様)による許認可の壁であった。当時、専用線を2000回線以上または海外専用線接続する通信事業者は届出だけですむ第二種通信事業者ではなく登録義務のある特別第二種通信事業者と電気通信事業法には規定があった。
その登録認可において IIJは申請から認可まであれこれと不当な注文を付けられて、まるまる一年の真に貴重な時間を空費させられたのである。
そこにあったのは郵政官僚のベンチャービジネスへの不信と敵意であった。すでに富士通や日電などの大手コンピュータベンダーは、 NiftySreve、PC-VANなどのパソコン通信で全国展開していたから国内専用線条件は同じであったはずだが、財力や信用がない新参者はそれを もってインターネット商用化の推進者たるべき監督官庁から認可を頭から拒絶されたのである。話は前後するがTnetもやはり特別第二種と認定され、パート ナーとなったセコム社の飯田会長(当時)が憮然としながら判を突いた念書の提出によってはじめて登録されるという屈辱を味合わされた。
今となっては・・・ですが。ここでも官の無理解による壁があった、と。Σプロジェクトの例を挙げるまでもなく、日本のコンピュータ産業というのは明らかに官、大手主導で新しい動きについて行けない・・・という問題がある。ソフトウェア産業も含め、こういう知的産業への理解が薄い。そうして、汎用機中心の時代からワークステーションへの変化も日本は取り残された格好だったし、PCへの移行も遅くなった。そして、ソフトウェア産業の構造は10年、いや、20年前から変わらぬままだ。
最近だと、携帯電話なんかがこの例に当てはまるように思う。PDCに固執したことで、日本の携帯電話ベンダーは世界進出に出遅れた。
Σプロジェクトの件は歴史的コンピュータとソフトウェアプロジェクトに関する昔話(社外公開版)にも色々当時の事情がありますが・・・。
学術分野とか、研究開発なんかは、理想を追求するという姿勢も在るように思うけど。
逆に理想を追求しすぎると、第五世代コンピュータなんて例もあって、官主導だとなかなか難しいのかも知れない。。
「ハッカー支援事業を国が始めるというので野次馬をしてきた、しかし」にも色々書かれてますね。
結局、根本から構造を見直さないとダメなのかも知れない・・・。
なんだか、書いてて悲しくなってきた・・・orz
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