記事では「ゲーム脳」に持って行きたい感じではあるが、それは違うと思う。「ゆとり」という言い方が正しいとも思わない。
多分、昔はじいちゃんやばあちゃんというのが身近に居る存在だった。もしかしたらひいじいちゃんやひいばあちゃんも居たかも知れないが。そしてペットというのも普通の存在だったと思う。(今は飼えない事が多そうで可哀想だと思う。個人的には情緒教育の観点から必要な存在だと思うのだが・・・) そして、躾をされたり、動物と触れあったりしながら、それなりの年数を過ごす。それなりの年齢でペットの死が訪れる。穴を掘って埋めて、墓を作ったりする。そしてじいちゃん、ばあちゃんの死に触れて「葬式」に遭遇する。近所付き合いもあったろうし、例えば「隣のうちのじいちゃん、ばあちゃん」の葬式というイベントもある。そうしているうちに、自然に「死ぬ」ということを学んでいた気がするのだ。核家族という言葉が生まれてからしばらく経つ訳だが、そういう環境の変化は大きいと思う。
そのくせ「輪廻転生」だけはどこかで覚えたりして、経験は無く、知識だけで「死」を認識している状態になっているのではないかと思う。
常識というのは「学問」ではない、「経験して覚える事」だ。
もっと言うと、例えば「飼っていたニワトリの首をひねて食べる」とかいうのを目の当たりにすることで、「生きる」「死ぬ」「食べる」と言った事の本質は実は表裏一体であると認識できるのだと思う。(残念ながら私はそこまでの経験は無いが。)
中学生にもなって、「死んでも生き返る」と考えると言うことは、とても可哀想に思えると共に昨今、意味不明な殺人事件が起こる根幹にも繋がっているのではないか。
以下原文(2004年のニュース)
【兵庫】「死んでも生き返る」と考えている中学生が2割もいる--。兵庫県内の幼児から中学生まで約4200人を対象に死生観を聞いたアンケート でこんな結果が明らかになった。背景には、身近な人の死に触れる機会が減り、一方でゲームなどに仮想の死の情報があふれる現状があるとも考えられる、とい う。死が絶対的なものとの認識は小学生でいったん確立するが、中学時代にはそれがぶれる現象が起きているようだ。【井上大作】
死別体験者の集いなどを続けてきた「兵庫・生と死を考える会」が、97年に神戸市須磨区であった小学生連続殺傷事件を受けて発足させた「生と死の 教育研究会」が03年と04年の2回、調査を実施。4~9歳の504人への聞き取り調査(03年)と、6~14歳の3719人にアンケート(04年)した 結果をもとに「子どもたちに伝える命の学び」(「考える会」編、東京書籍)にまとめ、9月に出版した。
最初の聞き取り調査で「あなたは自分がいつか死ぬと思いますか」と質問したところ、4歳で半数以上が「死なない」と回答するが、7歳になると9割が「死ぬ」と答えるようになった。「命の有限性の認識は7歳で深まり、9歳で確立する」というのが調査の結論だ。
一方で「死んでも生き返ると思うか」と質問した04年のアンケートでは、小学5、6年生から「死んでも生き返る」という答えが目立ち始め、中学生 では「生き返る」「たぶん生き返る」と答えた子どもが計2割に及んだ。現代の子どもにとって死の現実感が薄れるなか、「生まれ変わり」などの宗教的イメー ジも重なり、生と死の境界をあいまいに考える傾向があるようだ。
同様に、▽ゲームを毎日3時間以上する小学校低学年児童は「死んでも生き返る」と答える割合が多い▽学年が上がるにつれ、死にたいと思ったことの ある比率が増加する--ことなども判明した。これらの結果から、葬儀などへの参列や死について家族で話し合うことの大切さを指摘している。
教師や教育関係者らでつくる同研究会の代表で、小学生連続殺傷事件当時に県教育次長だった近藤靖宏さん(70)=芦屋市=は調査の意義について 「死についてストレートに聞く設問を見て、協力してもらえない学校もたくさんあった。しかし生きるとは限りある時間のなかでどう輝くかであり、これまで避 けられてきた死の問題を正面から考えることが大切」と話す。
同書は、学力やしつけをテーマにしたシリーズ本の1冊として出版された。東京大名誉教授で解剖学者の養老孟司さんが「命の大切さを実感させるには、死んだ人を見せればよい。『理解』するのではなく『実感』させることに意味がある」などと説いた提言も盛り込まれている。
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