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MONSTER MOVIE / CAN

THE MADCAP LAUGHS(帽子が笑う・・・不気味に) / SYD BARETT

ある意味とっても対照的な音源。語り継がれるモノにはやはりそれだけの力があるということか。

CANは明らかに確信犯!ループというかミニマムを目指している。怖いのが自覚があること。
最初は適当っぽく聞こえたんだけど、ビートを明らかにループさせている!!ってのに気づいて怖くなりました。とても白人が69年の作り出した音とは思えない。ボーカルが黒人だけど、彼は音楽畑の人じゃないし。ボーカルのメロディとかは絶対に偶然の産物っていうか即興で出てきたものじゃないですか?
もしかして耳障りの良い現代音楽か?
世間の評価どおり時代を超越した音。

一方SYDはもう何がないやら。。 サイケというよりは、ぶっ壊れてしまっている。。。 怖いほどあっちの世界の音(っつーか態度)。ただメロディの美しさは本物だと思う。ビートルズに通ずるほどのメロディセンスを感じる。こういう音に今も昔も無い。
あと、なんか幼児後退っぽいものを感じた。それほどまでに純粋で怖い音と詩。狂気を背負った天才。まさに「壊れたダイヤモンド」  正直相当びっくりした。

ここから3つばかり、全文引用させて頂く

http://boat.zero.ad.jp/floyd/floyd/syd/01.htm

シド・バレット:略歴
〜脅迫性神経疾患〜


 1946年1月6日、ケンブリッジ生まれ。本名ロジャー・キース・バレット。
 ご存知「狂ったダイヤモンド」であるシドだが、幼い頃より映像的なものやイメージ的なものに対する関心が強く、逆に楽器はそれほど得意ではなかった。ギターとの出会いも15歳と、他メンバーと比較すると、比較的遅い方である。そのうえ関心が強いことには、どうやら彼はコード弾きではなく、独自の単音弾きばかりに没頭していたようだ。コードはアマチュア・バンドを経て、デヴィッド・ギルモアと出会ってから彼に習っている。
 こと父親不在といえばロジャー・ウォータースであると解釈されがちだが、実はシドも、12歳にして父親を亡くしている。このことをまず、重要な点であるとしたい。私はこの父親不在が、後の彼の精神異常のキーワードのひとつであると推察しているのだ。
 ギターを手にして間もなく、シドは「ジェフ・モット&モットーズ」というバンドに参加し、1年後には「ザ・ホラーリング・ブルース」なるバンドでベースを担当する。その後、画家になるべくしてキャンバーウェルの美術学校に進むが、その前後にロジャーに誘われ、当時は「アブダブス」であったフロイドの原型にてリード・ギターを担当した。これが65年のことであるから、シドは当時19歳である。やがてバンドにありがちな改名にあたってふたりのブルース・マンから「ピンク・フロイド・サウンド」というアイディアを打ち立てたのがシドである、というのは有名な話だが、そのエピソードといい、その前後に録音した“Lucy Leave”及び“King Bee”の音といい、参加していた他のバンドといい……シドの根幹はブルースや、ブルース・ロックにある。そこへロックンロールの破天荒な精神と、幼少の頃より豊かであったイメージ的側面とがぶつかり合い、シドの世界が急速に開けていくのだ。
 そうして、よく「サイケデリックなイメージの具現化である」と言われる『夜明けの口笛吹き』リリース後、初のアメリカ・ツアーに出た先でその精神疲労とドラッグ過多により、次第に、いや、急激にシドの精神は不安定になっていく……というのが定説であるが、実際には「『エミリーはプレイ・ガール』を録音する頃には虚空を眺めるようになっていた」というギルモアの証言や、「ある金曜日にBBCセッションを控えているのに失踪し、翌週の月曜になって別人となって現れた」というリチャード・ライトの話、さらに「67年のアメリカ・ツアーからおかしくなったようだ」というニック・メイスンの意見もある。そのうえでシドはクロムウェル・ロードに住むLSD仲間のパーティーなどにも参加していたというバックグラウンドもあり……整理すると、ロンドンにいる時点で狂気は萌芽を見せ、やがてアメリカ・ツアーで成長、爆発してしまったということになりそうだ。
 それから数々の奇行を繰り返し、バンドとの調和ができなくなったシドは、ソングライターとしてフロイドに残ることになる。これはよくビーチ・ボーイズに於けるブライアン・ウィルソンと喩えられるが、そこまで綺麗な形ではない。単純に、レコード会社がシドを宣伝文句に利用し続けたかっただけのことだ。当時のバンドはシドが中心であったため、どんな形でも彼がいなければ売れっこない、そういう判断による決定だったのだ。だからこそ68年の3月、それも不可能であるという判断がなされ、マネージャーだったピーター・ジェナーは「シド抜きでバンドを続行、リーダーはウォータース」という話を聞いた時には笑い転げてしまったのだと言う。これは結果的に間違っていたとピーター自身も認めているが、それほど、シドの存在は絶対であったということの証にもなる。
 バンドから離れたシドは、世間から隠蔽していたようであったが、しかし実際には多くの曲をピーター・ジェナーのプロデュースのもとにレコーディングしていた。そして翌69年3月、EMIにシドは突然スタジオ・スケジュールを確認する電話を入れる。それに応対し、しばし右往左往したハーヴェスト・レーベルのマネージャー、マルコム・ジョーンズが「ノーマン・スミスにプロデュースを頼もうとしたが彼はフロイドの『ウマグマ』のために担当できない」という旨をシドに伝えると、シドはあの有名なひとことを彼に突き付ける。


“You do it(あんたがやりなよ)”


 そうしてマルコム・ジョーンズの指揮下により、シドはソロ・アルバムを製作していく。当時のソフト・マシーンのメンバーが参加した“Clowns & Jugglers”をもとにした“Octopus”や、ジェリー・シャーリー(ds、元ハンブル・パイ)やジョン・ウィリー・ワトスン(b)とのセッションをこなしていく過程で、シドはクロイドンで行われたフロイドのステージを観に行っている。そこでの再会を機に、ロジャーとギルモアも参加することになり、70年1月にして、バラバラだった楽曲群を奇跡的にまとめあげた『帽子が笑う…無気味に(オリジナル邦題:幽玄の世界)』を発表する。
 シドはギルモア(b)とシャーリー(ds)とでBBCラジオにも出演(88年に『ピール・セッション』として発表、日本未発売)し、さらにレコーディングを進めたがったが、ロジャーは「もう誰もシドをプロデュースできるものか」と言い残して去り、ギルモアが残った。しかしロジャーの言葉通り、ギルモア単独ではプロデュースなどできる筈もない。そこで彼はリックに救いを求め、シドとのセッションを続けていく。しかしシドの精神状態は悪化する一方で、ほぼ力技でセッションを押し進めたあげくに同年11月『その名はバレット(オリジナル邦題:シド・バレット・ウィズ・ピンク・フロイド)』を発表。難産となった。
 有名なエピソード??その収録中にロンドンはオリンピア行われたライヴにて??を聞けば、彼の精神状態が幾らか解るかも知れない。シドはここでもギルモア、シャーリーと共に演奏したが、4曲が終わると“Oh, great! Thank you very much!”と言い残してステージを去ってしまったというのだ。ひょっとすると、観客の視線から早く逃げたかったのだろうか……?
 その後の方針について、ジェナーはサード・ソロ・アルバムの製作を勧めるが、シドは「医者になる」と言い出してケンブリッジの実家に帰ってしまう。やがてゲイラ・ピニオンと結婚。オックスフォードで中断していた絵画をまた始める。と思いきや、72年になってジャック・モンク(b、元デリヴァリー)と出合ったのをきっかけに、トゥインク(ds、元ピンク・フェアリーズ)を誘いトリオ編成で「スターズ」なるバンドを結成。デモ録音と3回のギグを行った後、またしても精神状態が不安定になり、バンドは空中分解。
 そしてシドは、またも姿を消してしまう。
 今度は、長い沈黙をもってして。


 やがて『炎』収録時の皮肉なエピソードがあった後、シドはミュージック・シーンから完全に消えた。82年にフランスの雑誌「アクチュエル」の記者により写真が撮られ、インタビューもされたこともあった。88年には未発表音源で編まれた『オペル(オリジナル邦題:オペル〜ザ・ベスト・コレクション・オブ・シド・バレット)』も発表された。だがそれ以来、一部で熱狂的な盲信や根も葉もない噂が飛び交いつつも、マスコミのトップに扱われるようなことはまるでなくなっていった……


 誰もが抱えるであろう疑問が、ひとつある。
「それでは現在のシドは何をしているのか?」ということだ。
 こと「狂人」とされる人間の末路には死亡説から入院説、別天地でまるで違う人間として振る舞っているなどの逸話がまとわりがちだが、そういったものをシドに求めている方は、この先の文章には「夢を壊される」だろうから、ここで読書を中断して頂きたい。
 シドのバンド以降から現在については“FISH OUT OF WATER”というシドのヒストリー・ブックを読んでみると大体のことは解る。私の拙い英語力によるものであり、また恐らくは余計な解釈が混ざっているのだろうが……私なりにまとめると、こうだ。


 彼は家族のあたたかい保護と理解に恵まれるものの、スキャンダル狙いのカメラに怯える毎日を続ける。そのため彼は、子供にしか笑いかけなくなってしまった。やがて最大の理解者であった母をも失い、近隣者??兄弟や親戚のことだろうか???に擁護を受けることになる。彼の仕事は「家事手伝い」で、買い物のため街に出かけるのは好きだという。しかし常に、何かに怯えるかのような態度や視線がそこには存在する。精神の病も一時期ほどではなく、平常な生活を営めてはいる。生来の夢であった画家への希望はまだ棄てておらず、今でも、絵を描くことを趣味としている。


 こういったことを考えると、彼は常に「脅迫観念」或いは「脅迫性の妄想」に駆られていたのではないだろうか? 何かに追われ続け、変調をきたした精神。自分の創作につきまとう観客の歓声。それから逃れるべくスターダムからドロップ・アウトしても、追い続ける興味本位。それらが、シドの病を完全には治してくれないのだ。
 だからこそ、彼を悲劇のヒーローに仕立て上げたり、興味本位で追っている人間には、私はこう言ってやりたい。


「そっとしておいて、くれないか」


 私にできることは、まず彼を原寸大のひとりの人間として扱ったうえで、彼の世界を、彼の創造した世界を膾炙することだけである。決してスキャンダルを追い求める行為ではないことを、ここに言っておきたい。
 そして、シドを語る人間すべてに、それを願いたい……

http://backno.mag2.com/reader/BackBody?id=200405131550000000130466000

 ★コラム★シド・バレット

 本名ロジャー・キース・バレット。1946年1月6日生まれ。整った容姿と明る
い性格で幼少の頃から人気者であり、既に音楽や絵の才能を発揮していました。

 17歳の時、ロンドンの芸術学校で後のピンクフロイドのメンバーとなる3人と
出会い、バンド結成。オリジナルも演奏するようになった彼らはサイケイベン
ト等に出演し人気を博します。しかし既にLSDにどっぷり浸かっていたシドは
徐々に精神のバランスを崩し始めます。旧友と再会しても誰なのか分からなか
ったり、ひどい時には意思の疎通さえ困難だったようです。

 マスコミの注目を集めるようになった彼らはEMIからデビュー。1stシングル、
2ndシングルの成功に続いて、1stアルバム『夜明けの口笛吹き』が全英6位まで
上昇。しかしシドの精神状態は悪化の一途を辿り、もはや誰も手がつけられな
い状態に。そこでバンドは新たにギタリストを加入させ、シドをバンドから脱
退させます。

 68年、精神病院を退院し、いくらか状態の良くなっていたシドは突如ソロア
ルバムの製作に取り掛かる。70年1月に1stソロ『帽子が笑う…無気味に』発売。
同年11月に2ndソロ『その名はバレット』を発表。しかしシドはその発売前にケ
ンブリッジに帰ってしまいます。以降地元でちょっとしたバンド活動をしたり、
婚約パーティの最中突如頭を坊主にしたりという生活が続いた後、そのまま公
の場から姿を消す。

 そして75年、既に世界的バンドとなっていたピンクフロイドがシドに捧げる
アルバム『炎〜あなたがここにいてほしい』を製作している最中、スタジオに
突如姿を現す。が、肥満体となり、頭も禿げて変わり果てた彼を見たメンバー
は愕然とし、涙を流した。

 それ以降、再び公の場から姿を消し、現在の近況は不明。結局、ドラッグで
精神に異常をきたして以降、彼は出口のない精神的迷路をさまよい続け、そ
こから抜け出ることは二度となかったわけですな…。さよなら天才。

http://pochinokoya.com/favorite/sydbarrett.htm

ピンク・フロイド結成時からセカンド・アルバムのレコーディング中に忽然と姿を
消してしまうまでシド・バレットはバンドの核となるソング・ライターでした。
初期のシングル「アーノルド・レイン」や「シー・エミリー・プレイ」は彼の作品で、
夢の中を浮遊しているようなメロディー感覚や空虚なヴォーカルが印象的です。
1966年、ピンク・フロイドのプロジェクターを使った色んな物体をステージに投射する
ライト・ショーはマーキー・クラブやUFOなど当時ロンドンの若者のスポットで
大きな話題となり、彼らはすぐさまレコード契約を交わします。
シドのペンによるファースト・シングル、セカンド・シングルともにチャートの
上位を記録し、ピンク・フロイドはアビー・ロード・スタジオで
ファースト・アルバムの製作を開始。ちょうどこの頃、隣のスタジオでアルバム
「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を製作していた
ビートルズとは幾度となく遭遇していたようです。
ファースト・アルバム「夜明けの口笛吹き」を完成した彼らですが、
プロモーション活動のため自分たちの意にそぐわないポップ番組に出されたり
グルーピーにプライベートな場所まで追いかけられたりと
メンバーの中でも人一倍神経質だったシドは
次第に消耗し、ますますドラッグの深みへとハマって行ったのでした。
シドの奇行はピンク・フロイドのアメリカ公演で顕著に見られるようになります。
テレビ番組で口パクで唄うところを何もせず呆然と立ちつくしていたり、
司会者の質問をまったく無視したりして、マネージメント側を慌てさせ
結局この公演は途中で打ち切られバンドは帰国させられたのでした。
シドは本国のステージでさえもまともに演奏が出来ない状態で
演奏中じっと観客を見つめているか、狂ったチューニングのまま全く関係のない
コードをかき鳴らしているだけでした。バンドの将来を危惧するメンバーは
ギタリストのデイヴ・ギルモアへ電話を掛けメンバー・チェンジを行います。
実質上、バンドを追い出されたシド。レコーディング・セッションの日にスタジオへ
やって来ても受付で拒否される始末で、彼は寂しく去って行ったのでした。
しばらくしてステージでギターを弾くディヴ・ギルモアを戦慄させたのは
最前列からかつて自分のいたその場所に今や、違うギタリストが立っている姿を
ゾッとするような視線で睨みつけているシド・バレットの存在に気づいたからなのでした。

シド・バレットのファースト・ソロ・アルバム「帽子が笑う……不気味に」は
彼がピンク・フロイドを去ってから、1年あまり経った頃に録音されたもの。
ゆったりとしたバッキングに眠気をもよおすシドのヴォーカルがアルバム全体を
漂い、遊びに飽きた子供が玩具を投げ出すような危なっかしさに満ちています。
シドの唄は速くなったり遅くなったり、途中でちがう方向へ意識が飛んだり
それでも決して退屈でないのは彼の持つすぐれたメロディ・センスのおかげでしょう。
「カメに捧げる詩」や「タコに捧ぐ詩」の素晴らしいこと!

シド・バレットはこの後、もう1枚アルバムを発表した後、再び姿を消します。
そして1975年、ピンク・フロイドが「狂気」の爆発的なヒットによりモンスター・バンドに
なった頃のこと、フロイドのメンバーがあまりにも巨大な成功に戸惑いながら、
次のアルバム「炎 あなたがここにいてほしい」の録音をしていると
体重が100キロはあろうかという頭の禿げ上がった男がひょっこりスタジオに現れ、
フロイドのメンバーにこう云ったと伝えられています。
「ところで、ぼくのパートはどうしよう?」